日本の食文化において、特別な日に食べるご馳走の筆頭に挙げられる「うなぎ」。その聖地として真っ先に名前が挙がるのが、静岡県・浜名湖です。
「浜名湖といえばうなぎ」というイメージは、私たちの中に深く根付いています。しかし、「なぜ浜名湖なのか?」と聞かれると、意外と明確な答えを知らない方も多いのではないでしょうか。
実は、浜名湖がうなぎで有名になった背景には、車窓からの劇的なひしめき合いが生んだひらめき、大自然の奇跡的な恵み、近代日本の地場産業との意外な結びつき、そして時代を先駆けた画期的なビジネス戦略が複雑に絡み合っています。今回は、知っているようで知らない浜名湖うなぎの秘密を、歴史のロマンとともに紐解いていきましょう。
日本のうなぎ養殖発祥の地「浜名湖」

今でこそ全国各地で行われているうなぎの養殖ですが、その大規模な原点はここ浜名湖にあります。そしてその歴史の幕開けは、明治時代の一人の男の「ひらめき」から始まりました。
東京深川で川魚商を営みそれらの飼育研究を進めていた服部倉次郎は、列車で関西方面へと向かっていました。その道中、車窓からふと外を眺めたとき、目の前に美しく広がる浜名湖が飛び込んできたのです。
「待てよ、この広大で穏やかな水面は、うなぎの養殖に最適なのではないか?」(と思ったはず)
この直感的なひらめきこそが、すべてのはじまりでした。倉次郎のこの気づきをきっかけに、浜名湖におけるうなぎ養殖の本格的な調査がスタートします。そして彼の読みは見事に的中し、浜名湖はうなぎの育成にこれ以上ないほど適した場所であることが証明されたのです。
そして1900年(明治33年)舞阪町吹上に約8町歩(8ヘクタール)の養鰻池をつくった事をきっかけに、明治から昭和にかけて浜名湖周辺には次々と広大な養殖池が作られ、現在に至るまで日本を代表するうなぎの一大生産地としての地位を築き上げていくことになります。
なお、大和養魚は1907年(明治40年)に現在の浜松市浜名区細江町にて創業し、昭和21年4月に現住所(浜松市中央区篠原町)に移転し現在に至ります。
なぜ浜名湖にうなぎ養殖が根付いた?
服部倉次郎のひらめきが種をまいたうなぎ養殖ですが、それが一大産業としてこの地に深く根付いたのは偶然ではありません。浜名湖にはうなぎが健やかに、そして美味しく育つための「5つの奇跡」が揃っていたのです。
豊富に採れるうなぎの稚魚(シラスウナギ)
養殖を行うには、まず元となる稚魚が必要です。うなぎの赤ちゃんである「シラスウナギ」は、日本から数千キロも離れたマリアナ諸島沖の深海で生まれ、北赤道海流と黒潮に乗って日本沿岸へとやってきます。
浜名湖は、遠州灘(太平洋)とつながる「汽水湖(淡水と海水が混ざり合う湖)」です。黒潮に乗ってきたシラスウナギにとって、栄養豊富な浜名湖の入り口(今切口)は、絶好のエネルギー補給地点。そのため、冬から春にかけて驚くほど大量のシラスウナギが浜名湖に遡上してきました。わざわざ遠方から仕入れる必要がなく、目の前の海と湖から最高の稚魚が豊富に手に入る環境。これが、養殖業を爆発的に発展させる最大の強みとなったのです。
ミネラル豊富な地下水
うなぎの味や品質を決定づける最も重要な要素、それは「水」です。
浜名湖の周辺地域、特に三方原台地やその周辺には、天竜川の伏流水(地下水)が豊富に流れています。この地下水は、南アルプスの山々から長い年月をかけて濾過され、大自然のミネラルをたっぷりと含んだ純度の高い水です。
うなぎは非常にデリケートな魚で、水質が悪くなるとすぐに病気になってします。浜名湖周辺の養殖池ではこの清らかな地下水をふんだんに汲み上げて使用することができました。年中安定した水温とミネラル豊富な地下水で育つことで、脂が乗っていながらも上品で爽やかな味わいのうなぎが育つようになったのです。
紡績・製糸とうなぎの関係
ここで、歴史の教科書に登場するような「地場産業」との意外なつながりをご紹介しましょう。実は、明治時代から浜名湖周辺地域や湖西地域では、綿織物などの紡績業が非常に盛んであり、それに伴って「養蚕(カイコを育てて繭をとること)」が広く行われていました。
この養蚕業の存在が、うなぎ養殖の大きな推進力となります。糸を紡いだ後に残る「蚕のサナギ」は、タンパク質が非常に豊富で、うなぎにとってこれ以上ない栄養満点の餌となったのです。
当時、他の地域ではうなぎの餌の確保に苦労していましたが、浜松・浜名湖周辺では紡績・製糸業の発展のおかげで、この質の良い餌が大量かつ安価に手に入りました。この「地場産業同士の幸福なバトンタッチ」こそが、浜名湖でうなぎ養殖が急速に定着し、盛んになった隠れた主役なのです。
豊かな自然が育む気候
静岡県西部地域(遠州地方)の気候も、うなぎに大きな味方をもたらしました。
この地域は日本国内でもトップクラスに「日照時間が長い」ことで知られています。燦々と降り注ぐ太陽の光は、養殖池のプランクトンを元気に育てます。プランクトンが活発に活動する池は、うなぎにとって最高の生育環境となり、健康的な成長を促します。
冬には「遠州の空っ風」と呼ばれる強い北西の風が吹きますが、年間を通じて温暖な気候であるため、極端な寒冷期が短く、うなぎにかかるストレスが非常に少ないのも特徴です。まさに、太陽と大地の恵みが一体となって、うなぎの桃源郷を作り上げていたと言えます。
東西への流通に恵まれた鉄道・道路
どれだけ素晴らしい魚を育てても、消費者の元へ届けられなければこれほどの有名ブランドにはなり得ません。その点、浜松・浜名湖は「立地」という最強の武器を持っていました。
日本の二大消費地である「東京(関東)」と「大阪(関西)」。浜松はそのちょうど真ん中に位置しています。東海道本線が開通すると、活きのいいうなぎを新鮮な状態のまま東西の市場へと高速輸送することが可能になりました。
さらに、戦後のモータリゼーションの波に乗り、東名高速道路などの主要幹線道路が整備されると、その物流網はさらに強固なものとなります。「どこへでも、一番新鮮な状態で送り出せる」という地理的アドバンテージが、浜名湖うなぎを「全国区の有名ブランド」へと押し上げる決定打となったのです。
ひしめき合う浜松市の100軒以上のうなぎ料理店
こうした歴史と環境に育まれ、浜名湖周辺(特に浜松市)は、日本屈指のうなぎの聖地となりました。現在でも、エリア内には100軒以上のうなぎ料理店がひしめき合うように軒を連ねています。
これほど多くの専門店がひとつの地域に集積していること自体が「浜名湖といえばうなぎ」という名声をより確固たるものにしています。街を歩けば、あちこちからうなぎを焼く香ばしい煙と秘伝のタレの香りが漂い、訪れる人々を魅了します。
100軒以上の店がそれぞれ独自のこだわりを持ち、長年地域の人々や観光客に愛され続けてきたその圧倒的な店舗数と活気こそが、浜名湖うなぎの知名度を全国的なものにし「うなぎを食べるなら浜松・浜名湖へ」という強力なブランドイメージを維持し続けているのです。
明治・大正・昭和・平成の浜名湖うなぎの歴史
ここで、浜名湖のうなぎ養殖が歩んできた激動の歴史を、明治から平成にいたるまで少し専門的な視点からも振り返ってみましょう。時代ごとの環境の変化に、先人たちは常に知恵と技術で立ち向かってきました。
明治・大正期:産業の黎明と基礎構築
服部倉次郎のひらめきに始まった明治期は、手探りでの池造りと技術開発の時代でした。前述した養蚕業由来の「蚕サナギ」を主な餌として活用する体制が確立され、生産効率が向上します。明治から大正に掛け多くの養鰻場が創業し、この時期に浜名湖は「日本一のうなぎ養殖地」としての土台を完全に固めました。
昭和期:全盛期と、相次ぐ試練への挑戦
昭和に入ると浜名湖のうなぎ養殖は全盛期を迎えます。
しかし、その裏では多くの障壁もありました。特に大きかったのが1940年代以降の戦禍や、1953年の台風(13号)による養殖池の壊滅的な決壊被害です。さらに1970年代前後には、原因不明のうなぎの病気(エラ腎炎など)が大流行し生産現場は深刻な打撃を受けました。
しかし、この危機のなかで養殖業者たちはホッケなどの生餌から配合飼料へ転換や、露地池養殖からハウスを利用した加温養殖へと転換を図ります。科学的な水質管理と病気対策が徹底されたのもこの昭和の時代であり、ピンチをチャンスに変えていったのです。




平成期:環境の変化と、量から「質」への大転換
平成に入ると、台湾や中国などから安価な輸入うなぎが大量に流入するようになります。これにより、国内の養殖業は価格競争に巻き込まれ、生産者の数は減少を余儀なくされました。さらに、世界的なシラスウナギの採捕量減少という資源問題も表面化します。
この困難な時代に浜名湖の生産者が選んだ道は「量」の追求ではなく、圧倒的な「安全・安心」と「美味しさ」という徹底した品質主義でした。トレーサビリティ(生産履歴の管理)の導入や、環境に配慮した持続可能な養殖へのシフトなど、平成の時代は、伝統を守りながら「次世代へ繋ぐための知的な変革」が行われた時代だったのです。
浜名湖うなぎの未来を担う最高傑作「でしこ」

明治から平成にいたる激動の歴史を生き抜き、常に進化を遂げてきた浜名湖の養殖技術。その最先端であり、これからの未来を担う次世代のブランドとして現在大きな注目を集めているのが、浜名湖養鰻125年の最高傑作「でしこ」です
時代が変わりうなぎを取り巻く自然資源や環境がどれほど変化しようとも、「本当に美味しい本物のうなぎを届けたい」という養殖業者の情熱が変わることはありません。「でしこ」は、まさにその情熱の結晶です。
その身は箸を入れると驚くほど柔らかく、口に運べば上品な脂の甘みがじゅわっと広がります。それでいて、うなぎ本来の力強い旨味と香りがしっかりと鼻を抜ける――。まさに、浜名湖の歴史が到達した「最高傑作」と呼ぶにふさわしい逸品です。「で」伝統を守り、「し」進化を続け、「こ」幸福を届ける、そんな思いを込めた「でしこ」から新たなうなぎ文化を次の世代へ繋ぐための大いなる挑戦始まりました。
【番外編】うなぎパイのブランド戦略
浜名湖のうなぎを語る上で、どうしても外せない名脇役(あるいはもう一つの主役)がいます。それは、春華堂の「うなぎパイ」です。
昭和36年(1961年)に誕生したこのお菓子は、「夜のお菓子」という絶妙なキャッチフレーズとともに、日本一有名なご当地お土産として全国に知れ渡っています。しかし、なぜ洋菓子であるパイに「うなぎ」を取り入れようとしたのでしょうか?
ここには、極めて緻密で鮮やかなブランド戦略が隠されていました。当時、浜松市は高度経済成長の真っ只中にあり、東海道新幹線の開通や高速道路の建設に向けて、多くの人々が行き交う街へと変貌しつつありました。春華堂の当時の社長は、「浜松といえば「うなぎ」なんだ!うなぎがテーマの浜松らしいお菓子をつくろう。」と考えました。
「うなぎの粉末をパイ生地に練り込む」という前代未聞のアイデアは、最初は周囲を驚かせました。実際にうなぎの骨から抽出したエキスやガーリックなどの調味料を絶妙な配合でブレンドした結果、単なる甘いお菓子ではない、コクと深みのある唯一無二のパイが完成したのです。
「夜のお菓子」という名フレーズには、「出張や旅行帰りの夜、家族団らんのひとときに、このお菓子を囲んで楽しい時間を過ごしてほしい」という温かい願いが込められていました(のちに、うなぎの精力増強のイメージと相まって大ヒットにつながる大人のユーモアとしても機能しました)。
うなぎパイが爆発的にヒットしたことで、「浜松=うなぎ」というイメージは、本物のうなぎを食べたことがない全国の子どもたちや若者にまで広く刷り込まれることになりました。まさに、本物のうなぎ養殖の歴史が「うなぎパイ」を生み、うなぎパイのブランド力が「浜名湖うなぎ」の知名度をさらに引き上げるという、完璧な相乗効果(シナジー)が生まれたのです。
なお、大和養魚では白焼や蒲焼とうなぎパイの詰合わせもご用意しています。
終わりに
浜名湖がうなぎで有名である理由。それは単に「湖があるから」という単純な理由だけではありませんでした。
- 車窓から湖を見て可能性を直感した、服部倉次郎の「ひらめき」
- 黒潮が運んできた自然の恵み(シラスウナギ)
- 南アルプスが育んだ清らかな地下水
- 地域の伝統産業(養蚕・紡績業)がもたらした大量の「蚕のサナギ(餌)」
- 東西を繋ぐ日本の中心という、恵まれた流通網
- そして、時代ごとの荒波を乗り越えてきた、明治から平成にいたる養殖の歴史
これらすべての要素が、まるできれいに編み込まれた一本の太いロープのように繋がり合って、現在の「浜名湖うなぎ」という偉大なブランドが形成されています。
次に浜名湖のうなぎを口にするときは、ぜひその一切れに凝縮された歴史のロマンと、職人たちの未来への挑戦に思いを馳せてみてください。きっと、いつもの美味しさが、何倍にも深く感じられるはずです。
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